発明と概念

発明とは言語化された概念を、多くの人が扱えるよう、定量化して物理に落とし込むこと。概念とは何か。時間という概念。価値という概念。最近だと一流のスポーツ選手が「入る」という、ゾーンも概念だろう。概念とは、一部の人が感覚として捉えられる世界の分け方を、より多くの人が思念を向けられるよう、言語化したモノだと思う。

時計という発明は、時間という概念に対応する。お金という発明は価値という概念に対応する。人間の数万年の歴史で、概念の全てが言語化されたかどうかと問いを立てた時、されたとすることは出来ない。

だから、新しい概念を認知すること。新しい概念に触れ、言語化すること。それを定量的にモニタリングできる物理的なモノを発明すること。それをしたいと思うし、それが生まれやすい仕組みを作りたいと思う。そう、すでにある概念から発明をするのではなく、まだ言語化されてない概念をまず言語化したいんだ。

そのため、言語ではない形での表現に触れること。専門領域で働く人たちに、生きている中で根拠はないが、確信めいたことはないかを聞くことだと思い、聞いて歩いている。言葉通り、聞いて歩いている。

第三者の存在を感じる経験

大学の医学部の学生に質問し、面白い答えをもらった。「はじめて人の体を解剖した時、間違いなく人間以外の第三者が、この体を作った感じがした」とのことだった。第三者は言いかえれば、神さまや創造主といってもいいらしい。僕はこういった経験がないので、とても興味深かった。

虫が仰向けになってたら、起こしてあげる経験

いろんな企業の立ち上げに関わってきた方に質問した時。「昔から道で虫が仰向けになっていたら、起こしてあげるようにしています。そうすると、だいたい次の日に胸に別の虫がぶつかりますね。まぁ、そういうもんかと納得しています。」とのことだった。僕はこういった経験がないので、とても興味深かった。

相対的な比較と絶対的な比較

相対的な比較しかできなかった時代は、言語以外で表現できる人たちは、今とは比べ物にならないくらい(無論いまでも十分貴重だが)、貴重だった。「これより、それは重いか」「あれより、これは大きいか」数字や言語がなければ、こうなる。ほぼ絶対的に近い分け方ができたことで、絶対的な比較はとても便利だ。

ただ、今の世界は絶対的な比較ができないものに対して、だんだんと寛容ではなくなってきている感覚が強い。シンプルに言えば、虫を助けたら、次の日に別の虫が挨拶に来るって話を、バカにしないで、そういうこともあるよねと受け止められる人が減ってきていると思うんだよね。

いま人工知能と哲学を両方考える必要があると思う

人工知能は、人間という概念に対しての発明かもしれない。いま、モニタリング、センサリングできて、定量化できるもので人工知能を考えていくと、あんまり良い未来を想像するのが難しい。それは、哲学などが担ってきた、固定化される前の幅広い部分を内包させるのが難しいからだと思う。また、そこに対して、人は人らしさを感じてしまうから。

僕は面白いと人が感じることをなんとか人工知能にも入れることができないかなと思ってる。あんまり良い未来が想像できなくても、人工知能が考えたネタで爆笑できたら、それはそれで幸せかもなとも思う。

そんなわけで、人工知能のための哲学塾 第壱夜「フッサールの現象学」といういままで全く踏み込んで来なかった分野に少し踏み込みながら、一緒に考えられそうな人を見つけられたらなと思っています。

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